【No,5】発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由

【No,5】

発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由/栗原 類

 

発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由
 

 【栗原 類】

日本のファッションモデル、俳優。

発達障害の注意欠陥障害(ADD)と子どもの頃に診断される。

イギリス生まれ、アメリカ育ち。中学校で日本に転校してくるも、帰国子女として辛い日々を送る。母、主治医、学校係者(アメリカ)に恵まれ、自分自身が輝く職業に就くことが出来ている人。

 

 

【本文引用】

発達障害は、脳のクセです。

 

少しでも褒めてもらえることで、自分の存在が認められたと実感でき、自信がつくと思います

 

捨てる神あれば拾う神あり

 

今ここで選ばれなかったとしても、この先ずっと選ばれないわけじゃないし、今ここにいる人にとってはピンとこなくても、この先出会う誰かが才能があると認めてくれればそれですむ。人生は長いんだし、この先数えきれないほどの人に出会っていくんだから、今選ばれなくても問題ない

 

運が良かったからということもありますが、純粋に好きなことだったから長続きができた

 

短期記憶に問題があると良い事も悪い事も関係なくどんどん忘れていくので、自分が失敗して悲しかった事や嫌な思いをした事まで綺麗さっぱり忘れて、日々ゼロからのスタートをしているようなのです。  

だからその場で反省しても反省した事まで綺麗にツルッと忘れてしまう。同じ失敗を何度も何度も繰り返すし、そもそも同じ失敗だとも気が付かないし、「また同じ失敗をしてるよ」と言っても右から左なのです。

なにしろ本人にとっては過去に同じ失敗をしたという記憶がなく、今日の失敗は初めての失敗のつもりです

 

この脳のクセは面白い!

 

選択肢としては、発達障害児専門の特別支援学校もありましたし、フュージョン教育というクラスの半分を発達障害児、残りの半分を定型発達児で構成したクラス編成の教育を始めた学校も近所にあり、教師とケースワーカーはそれらの選択肢を提示する義務、特定の進学先を強制しない義務、家庭が選んだ選択肢を尊重する義務があります。

 

本書の中で、アメリカの特別支援教育の考え方・取り組み方を知れたのは良かった。日本と全然違うし、やっぱり遅れてるのかなぁ?

日本の保育園・幼稚園教諭や小学校教諭にぜひ話を聞いてみたい。

 

「親のエゴで無理に普通校に入れるなんて子どもがかわいそう」と暗に子どもの味方をするようなふりをして、親に負い目を負わせて支援校に追いやるような事を言う権利など、誰にもないのです。

 

ADHD/ADDは脳にクセがあり、その独特のクセが日常の困難を引き起こしています。まずは自分の弱点を知ることが克服への第一歩となります。自分にとって何が苦痛なのか、何が苦手だと感じるのか、そして、家族や周囲の人は自分が引き起こす何で頭を抱えているのか、困っているのか、それを見極めることが重要です。

 

視力が低い子に視力がよくなる訓練をさせるのではなく、眼鏡やコンタクトレンズの使用をすすめるのと同様に、発達障害児にとっての眼鏡やコンタクトレンズに相当するのが、タブレット端末やパソコン、スマートフォンなのです。

 

みんなそれぞれ自分にとっての「普通」とか「平均」があり、「普通ならこれはできるだろう」「そうはいっても、いくらなんでもこれくらいはできてあたり前」という先入観で他人を測っている

 

人間関係のなかで、些細な事でもうれしかったこと、楽しかったことがあると母に話していて、そのたびに「うれしいことがあったら、自分がうれしいということよりも、そういう事をしてくれた人に感謝をする気持ちを持ちなさい」と、言われてきました。周囲に感謝の気持ちを持つというのは、自分が愛されている、大事にされている実感を持つことにもつながります。

 

自分がやられたら嫌なことは他人にはしない。もう一歩進んで、自分がしてもらってうれしかったことは、誰かにしてあげられるようになりたいと努力をする。さらに一歩進んで、自分は嫌だと思わないけど、他の人はされたら嫌なのかもしれないという発想力を

 

うれしいとか感謝というのは、存在証明をしてはじめて存在するもので、それを表さなければ、誰も気付かない存在しないものなんだ

 

記憶力が弱いので、大概のことは忘れてしまい、覚えておかないといけないことでも忘れますが、覚えておきたいことも忘れたいことも、全て等しく忘れてしまうので、自分に都合よく持っている記憶力を活用できるわけではありません。

 

記憶ができないってどんな感覚なんだろうと初めて考えさせられた。

 

自分がやった事が悪い事だったという認識がないため、同じミスをして、母に怒られてしまい→反省して→寝て→起きたら忘れて→またミスを起こす、という繰り返しになってしまいます。

 

基本的に発達障害児の脳は、定型発達の子どもの脳よりも疲れやすいと思った方がいい

 

非日常の楽しい刺激であっても、それを受け止めるキャパシティが少なく、脳が刺激によりすぐ疲れてしまいます。学校の社会科見学などの集団行動で、「お行儀のいい態度」で参加できない、やる気がなさそう、興味がなさそう、飽きっぽい、自発性がなく見えるなど、教師からそんな感想が出たとしたら、脳の疲れのペースが他の子ども達と違うからだと思います。

 

子どもが行きたいと言った遊園地。最初はすごく楽しそうなのに、1時間そこらで「疲れた。帰りたい」と言い出し、機嫌が悪くなる。

大人の発想からすると「わがまま」で「飽きっぽい」としか見えないでしょう。しかし、それは彼らの脳が刺激を受けすぎて疲労しているサインなのです。

その1日を「楽しい1日」として終わらせるためには、元を取ろうとしたらダメなのです。子どもが楽しいと思っているところで帰らないとダメで、子どもが「帰りたい」と言ったら、それがまだ午後1時であっても帰らないと、子どもにとって楽しい1日として刻まれないのです。

 

発達障害者はそれが特に強かったり融通がきかなかったりしますが、誰にでもこだわりはあり、それが家族という単位のなかでは、しばしストレスの根源になりえます。

夫婦という単位でも、親子という単位でもそうですが、自分と違う人間は自分と違う部分にこだわり、自分がこだわる部分をどうでもいいと思っていたりします。そして自分がこだわる部分は大概、自分が簡単にできること、得意なこと、苦にならないことであり、自分にとってどうでもいいことは、自分が苦手なこと、興味のないこと、好きではないことだったりします。それが家族間で違うから揉めたりします。  

揉めごとは自分ができること、気になることを、他の家族がやってくれないことに対して不満を言うことから始まります。自分のことを棚に上げて文句を言うことを、私達はしょっちゅうやらかしているのではないでしょうか。

 

本の学校は、他人の行動に子どもが干渉しがちで、それを教師や親が咎めないまま育っていくので、毎日遅刻をしていると「また遅刻かよー」と、いちいち干渉してくる子どもが必ずいます。

アメリカの小学校だと、誰も文句は言いません。「また遅刻かよー」と、誰かが言おうものなら、教師なり保護者なり、それを見ていた大人が注意します。「遅刻はあなたには関係のないことでしょう。あなたが口を挟むべきではない」と注意するので、小学校低学年の時点で、他人に余計な干渉をする子どもはほぼいなくなります。

 

褒めて伸ばすのは大切なのです。それは、子どもにとっても、親にとってもです。発達障害の子ども達は「◯◯くんすごいねー」とか「◯◯ちゃん、いいねー」など、他人から褒められたり羨ましがられたりする場面はあまりないまま育っていきます。そして育てる親の方も、他の親から見て「すごいわね、頑張ってて」「見習わなきゃ」なんて言われることはまずないままです。逆に「もうちょっと◯◯した方がいいんじゃないかしら?」と、善意のダメ出しを受けながら子育てを続けていくことになります。

 

子どもに将来どうなってほしいのか。それはただ一つ。「幸せになってほしい」

 

何かにハマりやすい、のめり込みやすい気質を持つ発達障害者こそ、広く浅くいろんなことに触れさせるようにしておいた方がいいのです。「ゲーム(アニメ)じゃなくて、もっと本を読んでよ」ではなく、「ゲーム(アニメ)もいいけど、本も読もうね。映画も見ようね。外にも遊びに行こうね」でいいのです。押し付けるのではなく、可能性を増やそうという考え方

 

私自身は学校の勉強が、必ずしも社会に出るのに必要だとは思っていませんし、勉強だけが人間の評価軸ではないのは明らかだと思っています。しかし、「受験勉強をして志望校に合格する」という努力をした末の成功体験は、一度は獲得してほしいと思っています。

 

学歴がほしいというのとは全く違って、「知識を増やす体験は楽しい」ということを体感してほしいからです。新しいことを知ること、見ること、覚えること、知識として蓄えることが楽しいと思ってほしい。それは、勉強とか成績だけでなく、どんな仕事をする上でも大切なことだと思うから

 

本人が正しく判断できるように育てるには、「この場合はこうしなさい(ありがとうと言いなさい)」と伝えるのではなく「この時、相手の人があなたにこうしてくれたのは、あなたへの思いやりです。その気持ちに感謝しましょうね」という情緒面での根本を教えるべきです。どう振る舞うべきかだけを教えても、根本的な情緒面が理解できないまま大人になってしまいます。

 

「誰かが何かをしてくれるのは、君への心遣いなんだよ。それだけ周囲に大事にされている、愛されているんだよ。だからそういう人達に感謝しなさい。感謝は言葉にしないと思っているだけでは伝わらない。きちんと伝えることが感謝なんだよ」と、具体的に情緒的な視点で繰り返し教えることによって、自分を中心にものを考えるのではなく、他人を思いやる視点が少しずつ身についてきました。「他人(クラスメイト等)を尊重しなさい」と、ふわっと漠然としたことを言っても、尊重する態度がどういうものかを、具体的に教えないと身につきません。また、なぜ尊重する必要があるのかを教えないと、尊重する意味も理解できません。

 

失敗した本人の視点で反省させるだけではなく、相手の立場からの心情を説明する

 

他人への共感力が低く、常にマイペースで、自分の発想が中心になってしまうからこそ、常に自分以外の人を意識させる必要があるのです。

 

「この子のために何かをしよう」と考えるだけでなく、「どうすれば 20 年続けていけるのか?」を見つけることが大事だと思います。この子を変えるために、この1年だけ頑張るのでなく、この子が生きやすく、幸せに生きられるために、毎日できることは何か? を考えるのです。

 

教育現場への希望としては、結果の平等でなく、機会の平等を与えてほしいと切に思います。近眼の子が眼鏡をかけても文句を言われないのに、耳の聞こえが悪い子が補聴器をつけることが許されるのに、字を読んだり書いたりするのが苦手な子たちが、スマフォやタブレット端末を使うということを許してもらえないのは残念です。

 

アメリカは幼少期から発達障害の的確な診断をします。保護者が自分で病院を探して、診察を受けないと診断してもらえない日本と違って、アメリカでは幼稚園で支援委員会が立ち上がり、半ば強制的に専門家による診断が実施され、小学校の就学先を検討したり、支援プログラムが組まれるなどして親子を支援します。社会的に支援するシステムが確立しているのです。

 

例えば不安を覚えた時などに、そのストレスを解消するドーパミンなどの報酬系のホルモンが出るところが違うのです。健常児は前頭葉で理解をしながら、不安を解消したり、喜びを感じますが、発達障害のある子たちは、側頭葉(運動野)で感じることで、不安を解消したり、快感を感じるのです。一部の自閉症の子が不安を解消する手段としてぴょんぴょんと飛び跳ね続けたりするのもそのためだし、多動の子が少しもじっとしていられないのも、動くことで心が落ち着くからです。つまり、そもそもの脳のメカニズムが違うわけです。

 

おもしろすぎる。。

 

これはお笑い的な考え方かもしれへんけど、嫌なことがあったら、次に何か楽しいことがあるためのフリや、ていう。喉渴いてる時の方が水が美味しいとか、腹が減ってる時の方がご飯がうまいとか。嫌なことがあればあるほど、次にいいことがあった時に、めっちゃ楽しいというふうに考えてて、 どっかで最高の瞬間が訪れるっていう想定で生きてる。

 

本書の最後には栗原類と仲がいい、芸人又吉からの話も。

 

 

 

【感想】

特別支援学校教諭免許を取得するために、この夏10日間も講座受講をしてきたけど、教授の話よりも、発達障害者自身の言葉で語られると、ぐいぐい吸収できるなと思った。参考になりました

 

とにかくお母さんの子育て法が素敵すぎた。本文引用がかなり多くなったにも関わらず、まだまだ本書には発達障害の子どもへの子育て法や声かけで参考になるだろう点がある。

 

やっぱりどんな人間にとっても、人生の中で、どんな人と出会うかが非常に大事で、人生に大きな影響を与えるなぁ。と改めて思った。(最近よく感じること)

 

小学校教育にも興味が湧いてくる。。。

全教科は教えられないから諦めるけど(笑)

 

 

 

※本文引用で、栗原類と母の言葉がまぜこぜになっています。

 

 

【読書時間】3~4時間?

【読書記録】40分